多くの医学部には面接試験があります。
特に私立大学の医学部はすべて面接が課されます。
面接には、個性が問われます。
おうむ返しにどこかの参考書を丸暗記したような心のこもっていない受け答えをしても、全く意味がありません。
私たちは、自分の考えをしっかり持ち、なおかつそうした場に負けない発言力を持った受験生を育てたいと思っています。
自分の言葉で、自分の考えを述べられる。
そういう受験生です。
化学や数学の授業では、そうした面を扱うのは難しいですから、英語の授業においてそうした意味での土台づくりをしようとしています。
ただし重要なのは、受験が近くなって1~2回行うシミュレーションではなく、人間力を高めることだと思います。
もう一つは、小論文です。
私立大学の医学部では90%の大学で小論文を課しています。
文章を読んで、相手の意見を要約すると同時に、それに自分の意見を付け加えるというものです。
もちろん小論文という講座もありますが、ただでさえ受験科目が多い中で、小論文を年間通して受けられない受験生も少なくありません。
小論文では、自分の考えを体系的に述べて、相手に訴えていくという力が問われています。
そういうものを全部含めて底支えをするのが、総合教科としての英語の使命だと考えています。
私たちは今後、医学部受験対策を通して、日本の再構築の一助にかかわりたいと思っています。
つまり、医学部を通して、日本の教育のあり方を問いかけたいのです。
医学部がモラルハザードを起こすようなことがあってはいけない。
お金を積めば医者になれるみたいな絵を描いてはいけない。
むしろ医者の教育こそ、一番モラルが問われるはずだと考えています。
ですから、医師の養成とか医学部受験では、全人格的な形成を目指したいということで、英語がその任を引き受けることにしました。
そうした高邁な思想と合格率を高める方法論の整合性を重視したつくりのテキストを使い、年間のカリキュラムを組んでいるのです。
こうした教材やグランドデザインそのものに懐疑的な生徒やその親もいます。
たとえば一口に自然といっても、外的自然と内的自然があります。
外的自然というのは目で見える自然で木や森ですが、内的自然というのは、人間の本性を意味します。
ジャン=ジャック・ルソーが「自然に帰れ」と言ったのは、別に森の中に戻れという意味ではなくて、人間の持っている、もとの優しい本性に戻れという意味です。
そのルソーの言葉について、「そんなの医学部に必要なの?」という生徒もいます。
ですから、生徒全員にそれを強制はしません。
確かに、全生徒がこうした話を正しく理解できるわけではないと思います。
だから、もしかしたら、そういう生徒にはそれに適した器を用意すべきなのではないかとも考えます。
ただ、それ以上に可塑性というものを一番大切にしています。
大きい器を与えれば大きく変化するし、小さな器を与えれば小さいなりに変化するということです。
あらかじめこちらからこうだと決めずに、その器次第で大きくもなるし、小さくもなる。
だからできればまずは大きな器を提供して、その中で自分の可塑性に応じて中ぐらいの器でいいなら中ぐらいの器、一番小さい器でいいなら一番小さい器を選んでもらう。
ただ職業上の医者になりたいのではなく、生涯、自ら選んだ職業として医者という職業を選びたいというのであれば、ぜひとも大きな器を選んでもらいたい。
ですから、いろいろな器を揃えるにしても、一番大きな器があるところが最大の特徴ではないかと考えています。
私たちは、スキルだけを教えるのが教育ではないと思っているのです。
そのスキルを何のために使うのか。
その目的を含めて教えることが大切なのだと思います。
スキルだけであれば、先述したように、アメリカの7~8歳のレベルなのですから。
いかがでしょうか?
ここで最も言いたいことは、講師に深く、そして確かな知識と教えるためのスキルがないと、教科書どおり、マニュアルどおりにしか教えることができないということです。
それでは予備校に来ている価値は半減してしまうのです。
ここまで再三説明してきたように、縦の流れでは説明できても、横のつながりが見えてこ ない。
だから全体像もわからないし、応用力も身につきません。
縦のつながりは参考書を見ればわかります。
しかし、横のつながりはしっかりとその分野を勉強し、あるいは研究しないと見えてきません。
この差はその分野の素人にはわかりにくいのですが、それでも、そうしたことがあるとわかれば、いかにこの先生は教科書をなぞっているか、逆にこの先生はいかに流暢に、おもしろおかしく、もっと広い範囲での理解を促進してくれるかがわかるはずです。
後者の講師に学んでこそ、お金を払って予備校に通う本当の意味があるわけです。
つまり、マクロでその分野を捉えていて、テキストの背景がわかっている先生が試験問題を作るわけですから、後者の講師はそういう人と、思考が近いわけです。
「この場合は、こういう方向での出題があり得るな」
「こっち側に回る方法もあるな」
と見通せるわけです。
だから、そうした範囲をカバーする 練習問題が出題できますし、どの範囲まで知識を広げていくべきかもわかるのです。
ただ知識があって脱線が得意で、時間が足りなくなる学校の先生とは意味が違います。
さまざまな入り口からの問題を、講義をしている中で、次から次へと出していくこともできます。
しかし、そうした知識がなく、訓練もしていない講師は、問題を出すことができません。
どこかから問題集を持ってきて、それをプリントするしかないわけです。
自分では作れません。
その問題集の問題は、しかも通り一遍です。
別の角度で、別の入り口から出てきた問題には対応できません。
一人でそれをしようとしても、それは至難の業です。
少ない時間、少ない回数でどう合理的に頭の中に幅広いデータベースを作り上げていくか。それが私たちの手腕なわけです。