私たちに対する生徒の態度を見れば、これまでどのように育てられてきたかがだいたいわ
かります。
たとえば「先生、ここ教えてよ」と気楽に聞いてくる生徒は、家でも「お父さん、うるさいよ」と、父親に対してわだかまりを持たずに、友達言葉で話せる子です。
ところが先生に対して敬語しか使わない生徒は、一見、礼儀作法の教育が行き届いた子だと思いますが、そんな生徒に限って父親が苦手です。
そして、私たち教師になかなか近寄ってきません。
こちらから呼ぶと、「はい、何でしょうか」「はい、そうです」などとそつのない受け答えをして、シャチホコばって、顔も緊張していて、不思議な笑いを浮かべます。
親がそうさせているのです。
愛情も感じられず(親は勝手に愛情があると思っている)に、文句ばかりうるさく言われてきた子供たちです。
逆に言えば、そんなふうに、子供というものは、最初はすべて両親を通して社会というものを見ているものなのです。
家庭こそが社会へ続く窓と言ってもいいでしょう。
だから父親があまりに権威主義でカチンカチンだと、子供は萎縮して伸び伸びとできません。
だからといって、あまりに無責任に野放図に育ててしまうと、今度はそれこそいい加減な子になってしまいます。
そうした子供たちに私は聞きます。
「お父さんと肩を組んだことあるか?」「ないです」
「手を握ったことあるか?」「ないです」
そういう時は、そのお父さんにも聞きます。
「自分のお子さんに対して、『ありがとう』とか、『よかったね』とか、『偉いよ』などと、 どのくらい言っていますか? 今までに言ったことがありますか?」
ほとんどの場合、一回もありません。
愛を感じさせることもしないで、一般論で子供に厳しいことばかり言うので、子供は反感を覚え、やる気を失うか、あるいは萎縮して自分の世界に閉じこもってしまうかなのです。
そういうことを言うと、だいたいの父親は、困った顔をしながら、何も答えません。
心当たりがあるから、怒りもしません。
最悪はカチンカチンの父親で、かつ世間にいう一流大学でも出ていると、それこそ子供に はコンプレックスを持たせるばかりで、どうにもならない深淵に叩き込んでしまうものなのです。
または逆に超チャランポランな性格で放蕩させてしまうのです。
ある時、息子を連れた両親が悲痛な顔をして私に面会を求めてきました。
「この子はどうにもならない。勉強は全然しない。私の手におえません。先生どうしたらい いでしょう」
息子の悪い所を次々と並べ立てるこの一流大学医学部を出た医師が、この言葉を発するまでの気苦労はいかばかりであろうと思いながら、私は父親の顔を見ていました。
その子はどういう子かというと、成績も悪く、勉強に身を入れる習慣もなく、何につけ、とにかくだらしない生徒でした。
私は、その父親に、先ほどの質問をしました。
「お子さんを褒めてあげたことがありますか?」「……」
「お子さんに感謝したことはありますか?」「……」
「そうでしょうね。だからこうなるのです。お父さんを超えさせるためには、お父さんが自 ら隙を作らないといけないのです。前提は愛してあげることです。親の後ろ姿を見て育てと
思わないでください」
「手を握ってあげたことはありますか?」
もちろん答えは「NO」です。
「だから萎縮して引きこもるか、強い劣等感を持って放蕩するしかなくなるのです」
当たり前のことですが、子供は権力、地位、お金、名誉、すべてにわたって立派なお父さんに勝てるはずもありません。
なのに、隙を見せるわけでもなく、愛情を示すわけでもなく、自分と同じようにしろ、自分を超えろと言い続けるわけです。
それは相当のプレッシャーです。
教訓で育つにはまだ若すぎます。
「偉い」と褒められて育つ年ごろです。
「そうですか、わかりました。この子をしばらく、預かります」と思わず私は言ってしまい ました。
その子の母親はやはり泣いていました。
お父さんに「それでいいですか?」と聞くと、「わかりました。お恥ずかしい」と答えました。
「恥ずかしいことはありません。ただ、僕は本気でこの子を何とかしてあげたい。もちろん、この子と、いろいろ話をしながら、そのように考えたのです。とても素直ないい子です。お父さんの言うような子ではありません。世間で通用しない人間に育ててしまったのは、お父さんなのです」とその時、はっきり言いました。
もちろん、一般常識に照らせば、予備校の経営者であり講師という立場を逸脱しています。
しかし、人間形成から考えるのであれば、時にそうした決断も致し方ないことなのです。
周りには、「これは僕の生きがいだから」と言っています。
すべて医者になるための勉強でもあり、そんなこととは無関係な人間教育の話でもあります。
しかし、そこから叩き直さないと、勉強が短期間で身につくことは大変に難しいのです。
しかも、そうした努力の果てに、その子が自我を芽生えさせた結果、「医者にはならない」という選択肢だってあり得るわけです。
営業的には決してプラスになる話ではなく、私はやはり、経営者としては失格なのかもしれません。
しかし、一人の教育者として、どうしてもそこを避けては通れません。
しかも、その部分は、医者でなくても必要な部分ですが、医者になるのであれば、ぜひとも直してもらいたいところでもあるわけです。
萎縮した医者、いい加減な医者、チャランポランな医者、コンプレックスの塊のような医者、拝金主義の医者……。
そんな医者になどなってほしくないのです。
最初は、勉強の効果を上げるために、学ぶ姿勢を身につけさせることが必要と思って始めたことですが、最近はそうした面だけではなく、つまりは医学部に合格して、国家試験に受かるというだけでなく、立派な医者になってもらうための人間修行の一端をここで始めているという意識が強くなっています。
しつこいようですが、医者という仕事にしっかりコミットできる人間だけに、医者になってもらいたいのです。
患者さんと人間的に接し、強さから出てくる愛情を注げる医者になってほしいのです。